ディアボロ「EL JOVEN LOVECRAFT I(若き日のラヴクラフト 1巻)」バルト・トーレス、ホセ・オリベル その他の物語
- 作者: José Oliver Marroig,Bartolo Torres Prats
- 出版社/メーカー: Diábolo Ediciones
- 発売日: 2007/04
- メディア: Perfect
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以下引用。http://www.newspanishbooks.jp/book-jp/el-joven-lovecraft-i
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本書は、没後70年を迎える文学史最 大のホラー作家ラヴクラフトへのオマージュである。生前の事実に基づきながら作家の少年時代を再現し、現実とファンタジーが渾然となった世界へ読者をみち びく。二人の著者のつくりだした脇役たちに笑わされたり、ホロリとさせられたり。ロジャー・イバニェス、セルヒオ・ブレダ、ギリェム・マルク、サガル・ フォルニエスをはじめとした大勢のゲスト執筆陣のイラストレーションも多数収録。
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一部のラヴクラフトファンの間で結構前から話題になっていた1冊。
どっかでちょびっと読んだのだが、スペイン語が分からなくてもそれなりに楽しめる。続刊があり、確認できている範囲では3巻まで出ている。
少年時代のラヴクラフトのまったり怪奇な日常が楽しい。
美少女キャラ(かどうかは各個人の美的センスによる)も出るよ! 少なくともキャラ萌えは出来るよ!
確か夜鷹とかも出てきて笑った覚えがある。しかし、どこで読んだんだろう。
2013/6/4時点では、Amazonで1巻~3巻まで品切れ状態。3000円近くするので、Kindleの方が安い(552円……だ、と?)し、いつでも買えてお得かも。ぼくも買いたいけど、紙で欲しいし、そもそも電子で読む媒体を持っていない……。
こまめにAmazonで入荷しないか、確認しておくことにします。買えたらまた記事書くかも。
ラヴクラフト関連では、手元にある洋書を紹介するのも楽しいかも知れない。有名どころだけど、「Shadows Over Baker Street」というアンソロジーが読みかけ。
ニール・ゲイマンの傑作短編集の邦訳「壊れやすいもの」に冒頭の作品「A STUDY IN EMERALD(翠色の研究)」が訳出されている。ホームズ×クトゥルーの珠玉の一篇。読むべし。ぼくは訳者の金原瑞人氏に借りて読んだ(そのまま本も貰った)。ちなみに「Shadows Over Baker Street」は翻訳家の中村融氏から買ったもの。確か500円だったか。
同時に「The Ultimate Frankenstein」というアンソロジーも購入していて、これはラヴクラフトは関係ない(と思う)が、アジモフが序文を書いてたり、ブライアン・オールディス、カート・ヴォネガット、マイク・レズニック、F.ポール・ウィルスン、ジョージ・アレック・エフィンガー、その他、という面白い面子なので、読んでないけど楽しみ。
人から頂いたり、自分で買ったりした面白い(どちらかと言えば、面白そう、の部類が多いけどw)洋書もちょこちょこ紹介できたら良いね。
河出書房新社「とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢 - ジョイス・キャロル・オーツ傑作選」ジョイス・キャロル・オーツ
とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢 ---ジョイス・キャロル・オーツ傑作選
- 作者: ジョイス・キャロル・オーツ,栩木玲子
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2013/02/15
- メディア: 単行本
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以下、河出書房新社サイトより引用。
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美しい金髪の下級生を誘拐する、有名私立中学校の女子三人組(「とうもろこしの乙女」)、屈強で悪魔的な性格の兄にいたぶられる、善良な芸術家肌の弟(「化石の兄弟」)、好色でハンサムな兄に悩まされる、奥手で繊細な弟(「タマゴテングタケ」)、退役傷病軍人の若者に思いを寄せる、裕福な未亡人(「ヘルピング・ハンズ」)、悪夢のような現実に落ちこんでいく、腕利きの美容整形外科医(「頭の穴」)……。
1995年から2010年にかけて発表された多くの短篇から、著者自らが選んだ悪夢的作品の傑作集。ブラム・ストーカー賞(短篇小説集部門)、世界幻想文学大賞(短篇部門「化石の兄弟」)受賞。
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うちの実家ではTVブロスという雑誌を長年購読しているのだが、そこに豊崎由美さんが書評を連載されている。先日、実家に戻ったついでに読んだところ、ちょうどこの本が紹介されていた。あらすじからして、ぼくのための本に思えたので早速買ってきた次第である。
「とうもろこしの乙女 ある愛の物語」
収録作の中では一番長く、中編くらいある。学習障害などを持つ子供たちが通う有名私立学校で起こる誘拐事件。現代アメリカ版恐るべき子供たちといったところか。
犯人の少女たち、誘拐されたマリッサの母、冤罪に陥れられた男性教師、と寄り添う視点人物と場面とを転換しながら、マリッサは助かるのか、助からないのか、教師は冤罪を晴らせるのか、アルコールに依存するシングルマザーの危なっかしさ、そうした要素が絡み合いながら、サスペンスフルに展開していく。
被害者と加害者の少女たちは学習障害や発達障害を抱えているし、母親はシングルマザーであることの負い目からアルコールに逃避し始めてしまうし、冤罪に陥れられた教師はいい歳をして偏屈で子供じみている、不安定な部分を持つ彼ら全員が事件の進行とともに憔悴の度を深めていく。
巧みな人物描写にも唸らせられる。短い作品で幾人もの人物の内面と過去を鮮やかに描きだすテクニックには舌を巻く。
” とうもろこしのひげのような ” 綺麗な金髪を持つマリッサと、その美しさとネイティヴアメリカンの豊穣祈願の儀式とを重ね合わせて、残酷な犯罪に走るジュード。純粋無垢なマリッサとジュードの歪んだ愛情の発露の対比が痛々しい。
終わり方にしてもかなりしこりの残るものだ。
「ベールシェバ」
糖尿病の中年男が謎の若い女に破滅させられる。
かなり読者に解釈をゆだねる部分の多い短編で、荒涼とした自然と人間の野蛮はどこかランズデールを想起させられた。
「私の名を知る者はいない」
猫です。生まれたばかりの赤ん坊に嫉妬するジェシカちゃんが、湖畔の別荘で古顔の猫と神秘的な交感を重ねて……。
どうも幼い子供と猫を二人っきり(?)にすると、猫に命を吸い取られるという迷信が西洋にはあり、それを下敷きにした話らしい。
まあ、猫SFだ、読んでおけって話ですよ!(普段、夏への扉をぼろくそに言っているくせに
「化石の兄弟」
暴力的で威圧的な兄と兄弟の絆に不気味な執着を見せる弟。双子ものとして、「タマゴテングダケ」と対をなすと思われる短編だが、相変わらずその悪意と野蛮には身震いがする。とはいえ、こちらはどこか救いがあり、むしろ双子の消えない絆に感動さえさせられる。全体的な不幸の度合いはこちらの方が上だが、最終的には愛情が勝る。たぶん収録作の中ではもっとも後味が良い。
「タマゴテングダケ」
狡賢く冷酷な兄と知能は高く道徳的ではあっても実行力の伴わない弟。うじうじする弟にいらいらしながらも、毒キノコで兄を殺害しようとするのをはらはらと応援していると……。
本当に兄貴が嫌な奴なんだな、これが。そして弟も弱い、精神薄弱である。むしろ弱さこそ悪ではないかとさえ思えてくるから不思議だ。
そしてひたすら反目しあう兄と通じ合ったかな、と思ったとたんに。弟は本当は道徳的で正しい人間だったのではなく、ただ単に何かをする勇気を持たなかっただけの人物だったということが分かる。後味は悪いが、どこか心に残る短編だ。
「ヘルピングハンズ」
夫を失ったばかりの金持ちの未亡人ヘレーネと退役傷病軍人ニコラスがお互いの傷を癒しあう恋物語、と見せかけておいて、ああひどい、ひどい。この人は本当に日常に潜む悪意のようなものを書かせたら天下一品である。
少し前にも書いたが、ランズデールと似ている印象を受けるのは、良い人が出てこないものを書くからだろう。どいつもこいつもろくでもないのだが、小さな邪悪を大きな邪悪で上塗りするような手法が本当に気持ち悪くて、最高である。
また直接的な暴力を描かずとも、野蛮な雰囲気をこれでもかと演出するオーツの技はここでも光っている。
「頭の穴」
人物の描き方は相変わらず巧みだが、それは味付けに留めつつ、ぼくの愛するぐちゃどろスプラッタをブラックユーモア的に書き切っている。
美容整形外科医であることにコンプレックスを持ち、妻との関係は冷え切り、資金繰りに困窮した中年医師が、目の前に転がりこんだチャンスとリスクを天秤に掛けて、一か八かに走ってしまう。警察と思いがけなく遭遇した医師の、親にオナニーの最中に部屋に入ってこられたかのような慌てっぷりはある意味微笑ましいが、その後ろには頭蓋骨からドリルが貫通し、脳みそを抉られた屍体がのっているのである。
オーツの作品には、どんな場所にでも必ず悪意や不穏な何かが潜んでいる。そして、それらに躓いてしまう人間、積極的に加担する人間、助かる人、助からない人、あらゆる人間がいて、あらゆる側面を持つのだということを教えてくれる。そして、人間が持つ弱さは破滅の原因ともなるし、お互いに支え合う理由にもなる。
なんどでも繰り返し読みたい、まさに傑作短編集でした。
次回はもしかしたら、本の紹介じゃなくなるかも。
あと買った本を毎回記録してみようかな、と思います。
国書刊行会 未来の文学シリーズ 「第四の館」 R.A.ラファティ
「トマス・モアの大冒険 ‐ パスト・マスター」(原題:Past Master)と並んで、ラファティ長編中の最高傑作と並び称される(らしい)のだけれど、ぼくはもう片方の代表作を読んでいないので比べようがない。残念。
とはいえ、どっちが良いとかいうのは関係なく、興味深い小説であるのは確かだ。
あとがきにて訳者の柳下毅一郎氏も書いているのだが、ラファティのもう一つの面がはっきりと表れていると思う。ぼくらの分かる形では整理されていない知識と思想のるつぼ的なものが特に見えてくる作品と言ってよいだろう。
以下あらすじ引用
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とってもいい目をしているが、おつむが足りない若き新聞記者フレッド・フォーリー。彼はテレパシーでつながって人間を越えた存在になろうとする七人組の 〈収穫者〉にそそのかされ、さる政界の大物が五百年前に実在した政治家と同一人物ではないかと思いつく。この記事を調べるうちに、フォーリーはいくつもの 超自然的友愛会が世界に陰謀をめぐらしていることを知り、熾烈な争いの中に巻きこまれていく―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
すっごくかいつまんで言うと、ちゃんと一人の主人公がいて、世界に影響力を持つ四つの勢力をそれぞれあっちゃこっちゃ取材して回って、アサイラムにぶち込まれたりする(かいつまみ過ぎ)。
でも、これがおつむの弱い青年が世界を見て回って成長する青春グラフィティ的な物語かって言うとそうじゃない。いや、最後に青年に変化は訪れるけれど、それは物語の結果というより、天啓のように与えられるものにぼくには見えた(ちょい唐突というのもあるけれど)。
この小説の読みとしては、人類進化テーマのSF、カソリックSF(宗教SF)というものがある。それについてはあとがきでも触れられているし、そうであること自体は特に深読みしなくても分かる。
ラファティをより楽しむためにはどちらの方向でも読みを深めてみるのは必要だと思うけれど、とりあえずSF者は人類進化SFとして読んでみるといいかも知れない。
もしくは自分で気になった部分を分析してみるのも面白いかも知れない。
ぼくはラファティの文章技法を少しだけ分析してみた。
まずは個々の文章を見るとトートロジーが多いようにみえる。というか実際に探そうとするとあんまり見つからないのだけれど、「Aは○○だからAである」というところを ” ○○ ” の部分に「そうだからそうだ」「事実そうなのだ」といった言葉が挿入され、まるで公理や法則として扱われるようにみえる。
(ついでに真逆である撞着語法も似たような使い方をされているように感じる)
たぶん、それはラファティユニバースの自然法則(あるいはホラ)なんだろうな、と思っておく。区別する必要があるのかはちょっと疑わしいけど。
その中には偏見や思い込みが特権化される過程を皮肉ったような表現もあって、笑える。たとえば、p.50の一段落目とか。
ラファティの使っているのは一種の象徴主義のような気がする。ただし、個人の内面ではなく、集合的無意識(っていったら恰好つくかな)のような形の人類の内面を映しているように思える。まあ、ラファティも同じ人間であることだし、表面の論理や知識の配列や繋がりが分からなくても、集合的無意識という方面から攻めてみるのは一つの手段として有効そうだ。
そう考えるとこれはそうした無意識下の四つの元型(アーキタイプ)が主導権争いを繰り広げる話にも見えてきて面白い。
実際にそれぞれが、完成された人間を目指しているわけですしね。ま、それだけだと世界をそのままで維持しようとするパトリックの勢力がちょっとアレなんだけど。
p.246~のヒキガエル、大蛇、鷹、アナグマの象徴は、原始的なアーキタイプとしてみれるし、「象徴を通じて無意識が我々に訴えかけようとしていると考える者もいる」とまではっきり書かれているので、こっちに指向性をもたせたのはまったくの間違いではない気がする。
つーか、心理学はフロイトで止まってるぼくなのです。今度ユングも読んで出直してきますわ。まあ、時間をおいて再読の際にはもっと深い読みが可能になってるといいな(疲れた)。
ちょいと馬鹿話でも。
それにしてもラファティおじさんは触手好きですよね。もうね、触手とか言われたらラヴクラフト思い浮かべちゃうじゃないですか、やだー(怒らないで下さい)。
蜘蛛とかも出てきて、めっちゃアトラク=ナクアっぽいじゃないですか(C.A.スミス「七つの呪い」に出てくる蜘蛛の化け物っすよ)。
あー、ラファティがラヴクラフト読んでたかどうかとか超気になってキマシタワー!
いや、わりとふつーに読んでそうですけど(影響受けてたんかな、みたいな)。
もうラファティの小説には該博な知識をごった煮状態でぶち込んだら、激ウマ料理が出来ちまったぜみたいなところがあるので、料理の材料はなんだろうって考えるだけで(例えそれが想像にすぎないとしても)、超楽しいんだよね。
とにかく俗に言うセンス・オブ・ワンダーとやらを存分に味わうことが出来ることは間違いないので、まずは読んでみるのがよろしいかと。
なんだか、真面目な感想ばかり書くつもりで新たに始めたブログなのに、結局茶化さずにはいられないのは性でしょうか。困った。
でもここで取り上げるのは鯨飲している書籍流の中で、感想書きたいと思う程度には興味深いものばかりなので、次回以降もおつきあいください。
青心社SFシリーズ 「蛇の卵」 R.A.ラファティ
とりあえず、ラファティでしょ。
なんの因果か、遅れに遅れていたラファティの邦訳が連続で三冊も刊行された。
「昔には帰れない」、「蛇の卵」、そして「第四の館」
本当は三冊分の記事を書こうと思ったけれど、いま手元にあるのは後者二冊だけ。なので、とりあえず長編二本を頑張ってレビューしてみる(いや、速攻買って読んで楽しんだけど、実家においてきちゃっただけですんで)。
しっかし、「地球礁」や「宇宙舟歌」に比べると読みやすいんじゃないんですかね、この二冊は。
それではまずはこちらから……
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以下ネタバレ含むので、気になる人は読まないでね(ラファティの長編はネタバレで面白さが減じるようなもんじゃないですが、一応)。
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去年の京フェスで訳者の井上さんがあらすじを語っていたのをわくわくしながら聞いていた。
人間、動物、天使、悪魔、それにマシンの中から選び抜かれた ” スーパー子供 ” 12人が本物の超級知性を持つ存在 ” 蛇の卵 " を目指して、世界を引っ掻き回しながら、あらゆる陰謀を張り巡らして世界を支配する秘密組織カンガルーと戦う話。
どうです? 全然分からないでしょう?
それとも「分かったぜ、想像の範囲内だ!」って言うつもりかね。
たぶんそれは分かったつもりになってるだけ、ラファティの想像力は2、3周回って月の裏側に着地している。そんなのあらすじだけで捉えきれるもんじゃない。
しかしまあ、いつもの長編は冥王星の裏側か、下手すると太陽系外に飛び出しているので、その点、今回は親切だと思う。
やぶにらみの目、少数で世界を支配する秘密組合、〇人組のグループetc……ラファティの集大成というだけあって、頻出のキーワードがぼろぼろと出てきて、しかも場合によっては説明まで入る(実際シンセツ!)。
分かりやすさだけなら、ラファティの長編でも一番じゃないかと思うのだ(邦訳長編はまだ全部読んでないからアレだけど)。
またラファティにしては珍しくふつーのSFっぽい考察がちょいちょい出てくる。コンピューターと人間の違いとかそーゆーの。
ぬぅわあんとこの世界では歩行型人間模倣コンピューターとゆーロボットが闊歩する世界で、しかもそいつらが超優秀! 人間なんて、ふふん、と見下していらっしゃる。
序盤にはインタビュウ形式で様々なコンピューターたちの語りが入ったりもする。
もちろん、そこらへんはほらふきおじさん流の諧謔たっぷりの語りだ(コンピューターの皮を被ったラファティだろ! と言いたくなる)。
そして12人のスーパー子供の一人であるイニアールたんも女の子タイプのAMHコンピューターである。べつに彼女の容姿についてはほとんど触れられていないが、皆さんもぼくを見習ってロリ美少女として脳内再生することをお勧めする。
(あいたたた、石を投げないで下さいよ)
まあ、そう怒らず聞いて聞いて。12人もスーパー子供は登場するけど、このイニアールたんはその中でも最後まで出てくる中心人物なんだってば。
どっからどーみてもディストピアな世界で世界の支配者カンガルーに抵抗するうちに、一人また一人とスーパー子供は殺されていく。それでもイニアールたんは最後まで生き残る重要な語り手なんですよ。
同時に世界を海底に沈めた張本人でもある。
さまざまな種類の生物たちがごった煮に集まって沈没する世界から逃れるってちょっとノアの方舟ぽいななどとぼくは思ったりするのだけれど、そこまで合致する点があるわけではないので、はっきりとしたことは言えない。
また、序盤にコンピューターのインタビュウ(まあ口伝の一種と言えなくもないだろう)が配置されているのは最後のひっくり返しの伏線と読めなくもないと思う。
とにかくなんだかすっごい悲劇が起こったりしている(だって年端もいかない子供が連続して殺されていくって、普通は陰惨な物語になりかねないですぜ)のに、どうしてもにったらにったら笑いながら読んでしまうのは、どこか陽気な語り口のせいだろう。
とんでも終末論SFだって、語り口次第ではにこやかな伝承に変えられてしまうのだ。本質はそのままにして。
21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集『時間はだれも待ってくれない』 高野史緒◎編 <後>
だいぶ時間が空いてしまったが、ようやく <後> と相成った。
えすえふ関係で色々とごたごたしていたのですが、それについてはそのうち。
<ポーランド>
「時間は誰も待ってくれない」
著:ミハウ・ストゥドニャレク
訳:小椋彩
さてさて、表題作。
ぼくのように妙なえすえふをぐふぐふ言いながら読み漁っている人間は別として、読者の中にはこの魅力的なタイトルに魅かれて手に取るものも多そうだ。
はっきり言ってポーランド文学で世界文学的に読むに値するのってレムだけじゃないのと思う向きもあるだろう。ぼくもそう思う(ポーランドの小説なんてレムしか読んでないけど)。
まあそれは良い。みんな大好き時間SFである。時間SFっていうと大抵ロマンチックな感情がべたべたと糊塗されたもんばっかしで、「くやしい…! でも…感じちゃう!」という不本意な思いをさせられることが多いので、あまり好みではない。
でも、フリッツ・ライバーの<改変戦争>は良いよね。
閑話休題.
本作は、郷愁を織り交ぜながら、可視化され再体験可能となった過去に直面する青年を描いている。あるとき青年は、大戦で崩れ落ちた街並みが記憶の通りに現在の街と重層的に存在することに気づく。一年に一度、古い建物がかつての場所に帰ってくるのだという。
その重なり方はどこかミエヴィルの「都市と都市」を思い起こさせるが、すべての人々がそれを見ることが可能かという点で違いが生じている。過去に関する思い入れを持つ人間だけ、恐らく過去の建物の記憶の一部であるようなことに自覚的な人間だけがみることが出来るのではないか。
主人公の祖父は語り部であり、彼は祖父から聞いた遠い情景への憧れが精神のどこかでくすぶっているような人物であることは見逃せない。
主人公を導くのが骨董屋のおやじであることも無関係ではなさそうだ。
ぼくはこの短編を気に入った。かなりドライである。話の筋としては懐古趣味とともにおっさんと青年の二人が別のおっさんをこっそり追いかけるだけ。
どこにもべたべたしたところはない。
われわれの記憶にある過去の風景とはどういうものなのだろうかという考え、さらに最後まで読めば分かるのだが、現在からみた過去ではなく、さらに未来からの視点、現在すらを過去化するような視点があるのが面白い。
こんなこと言ってるとちょいと小難しい話な気もしてくるが、そんなこともない。
主人公たちと一緒になって重層的な街並みを追体験してみるのも楽しい。
この本全体の中でも一番と言わずとも(好みの問題がかなり混ざってしまっているけど)、上位にくる短編だと思う。
<旧東ドイツ>
「労働者階級の手にあるインターネット」
著:アンゲラ&カールハインツ・シュタインミラー
訳:西塔玲司
これもなかなか面白い、そもそも時間がなんちゃらなどという軟弱っぽいタイトルよりは変てこで好きだ。しかも同じく時間ものである。
東西統一後のドイツでハイテク研究所の職員である東独出身の男の元へ、自分と同姓同名の人物から今は無き東独ドメインのメールが届く。
メールは単なるいたずらなのか、それとも過去から? 歴史改変された現在から? とすれば平行世界(オルタネートワールド)から?
翻訳の方が頑張りまくっているおかげか、お前はストロスかいなとゆーくらいにジャーゴンやSF的ワードが乱舞するのが気持ちよくて仕方なかった。
中二病でええやん!
また終わり方も好きだ。通り一遍のハッピーエンドでもバッドエンドでもない。
真実は時間と空間の彼方に消える。
<ハンガリー>
「盛雲、庭園に隠れる者」
著:ダルヴァシ・ラースロー
訳:鵜戸聡
作品と関係ないところで、一つ
姓:ダルヴァシ 名:ラースロー
だそうで。
ハンガリーで何故か中華ファンタシーなんだけど、面白い。
マジャール人てアジア系の民族なんですよ、奥さん。
うんまあ、中学の頃にヴァンパイヤー戦争とか読んで知ってたよ。
内容は、すげータイトルまんま。庭園で繰り返される皇帝VS田舎っぺの兄ちゃんの仁義なきかくれんぼバトル。
しょうもなさそうに見えて、権力構造に対する皮肉と寂寥感にあふれる怪作。
雰囲気は勝山海百合せんせーの「さざなみの国」に近い気もする。短編だけにずっと唐突で、さらに嫌な感じだけど。
こういう変なもの読めるのはアンソロジーの楽しみの一つですね。
<ラトヴィア>
「アスコルディーネの愛―ダウガワ川幻想―」
著:ヤーニス・エインフェルズ
訳:黒沢歩
わりと分かりやすく詩的幻想にあふれた作品。
河川にまつわるヨーロッパ的幻想というのは面白い。詩的と言ってもうざったいロマンスだけでなく、恐怖的(ホラー)なものがうまい具合にミックスされていてうれしい。
正体不明の船とそれにまつわる事件の真相が矛盾の孕みながらも断片的に繰り返し語られていく。心理学的モチーフについて編者は述べているが、まあそこまで深く考えなくても、意外とミステリ的に楽しめると思う。
ただし、フェアな情報開示が行われているわけではないので、パズラーは期待しないで下さい。だまされるのが好きな人にはお勧め。
<セルビア>
「列車」
著:ゾラン・ジヴコヴィチ
訳:山崎信一
きゃー、ユーゴスラビア問題と絡められると弱いんですわ。米澤穂信「さよなら妖精」のせいだ、こら。言うほど絡んでないけど。
融資に悩む銀行顧問が列車のコンパートメントで ” 神 ” と出会う話。
嘘じゃないんだってば!
神が神であることに違和感を抱かず受け入れるってのは、一種の天啓じみたところがある。ふつーのおっさんに見える神曰く、なんでも聞きたいことに答えてくれるらしい。そこで銀行顧問のおっさんは……。
この話は悪くないけど、分かりやすくオチつけてしまうよりはそうしない方が良かったんじゃないかと思う。
かくして、コンクラーベSFで始まった本書は神との邂逅SFで終わりを告げるのだった。編者は狙ってるだろうに、指摘してる人はあんまりいないような。
まあぼくも先日アンソロジーの組み方について色々考える機会がなければアレでしたでしょうが。
全体的に大傑作とか言う気はないけど、幻想文学が好きな人は読んでおいて損はありません。てゆーか読め。お布施を払って、創元がまたこういう企画を組めるようにしましょう。
次回はこちら、R.A.ラファティ「第四の館」をレビューしたいと思います。
21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集『時間はだれも待ってくれない』 高野史緒◎編 <前>
2011年秋に出版された、東欧という文化圏を再定義しつつ、SFやファンタシー文学を介して、東欧という文化圏の魅力を伝えるという目的を持って、高野史緒女史が編纂した、珍しい内容のアンソロジー。
本来のファンタスチカとはどのようなものかという事を知ってもらうためにも、初めにこの本を紹介してみることにした。
一篇一篇紹介してみたいので、長さを鑑みて前・後に分けた。
<オーストリア>
「ハーベムス・パーパム(新教皇万歳)」
著:ヘルムート・W・モンマース
訳:識名章喜
宗教を扱ったSF自体はとくに珍しいものではなく、およそそれなりのスケールの物語を構成しようとしたらほぼ間違いなく取り扱われるテーマである。
しかし、銀河系外にまで布教されたカソリックにおけるコンクラーベSFというのは例をみない(と思う)。
ちょうど、現代の教皇もベネディクト16世からフランシスコへ交代したばかりだ。この作品ではベネディクト17世が逝去し、次代のローマ教皇の座を決めるためにコンクラーベが行われ(未来になっても儀式の作法に変化はない)、それを取り扱ったTVの討論番組という形式で記述される。
魚型異星人がどうやってコンクラーベで秘密主義を守りながら投票を行うかなどと言ったことが大真面目に説明されたり、枢機卿のうち二十数名は老人性痴呆で投票権を無くしたりとバカSF(褒め言葉です)と呼ぶにふさわしい作品なのだが、分かりやすいオチがつくわけではない。オチに頼らず淡々とブラックユーモアとともに(ぼくらが見ると変にみえるけれど、恐らく作品世界では切実だろうと思われる問題が)語られる様子は笑いを誘う。
かなり凸凹な印象のあるこのアンソロジーの中で、特に気に入っている短編の一つだ。
<ルーマニア>
「私と犬」
著:オナ・フランツ
訳:住谷春也
息子を尊厳死させた男のその後の人生が語られていく。主人公は絵に描いたように謹厳実直な男で、自分に出来る最良のことを淡々と行える人間だが、良かれと思い息子の生命維持装置を切った数日後に安楽死禁止法(確率は低いものの植物状態からの治療方法が確立されたため)が発布され、そのことは男から少しづつ気力を奪っていき……。
作中では命に係わる重大な病気を絶対確実な方法として、犬が人間の病気を嗅ぎ分け、さらに犬の嗅ぎ取った情報を読み取る装置が開発され、患者とペアになる犬には患者と同じ名前がつけられ、「私ー犬」となる。
ストーリーとしての盛り上がりや新規性は少ないが、しみじみとした情感のある小品といったところだろうか。
「女性成功者」
著:ロクサーナ・ブルンチェアヌ
訳:住谷春也
大成功した建築家の女性による伴侶探しを扱った作品。編者は違うというものの、ぼくには「現代女性のパロディ」であり「はすに構えた風刺」にしか見えなかった。
しかし、人生の伴侶として自分の好みに作ったロボットを買うのが一般的な世界というのは、ぼくのようなフィギュア世代(と頭悪そうな批評家が言っていた)の目には、即物的な魅力がある。
どう読めばよいか迷った作品だが、声高なフェミニズムというのに違和感を覚えるぼくにとってはそれなりに共感を覚えられる作品であったことには違いない。
<ベラルーシ>
「ブリャハ」
著:アンドレイ・フェダレンカ
訳:越野剛
21世紀と銘うった作品集に90年代の作品である「ブリャハ」が収録されることに意味は確かにあった。作者は東欧の近現代を語るうえで外せないであろうチェルノブイリ原発事故で最も放射能に汚染された地域の出身者。
汚染地域に残ったマイノリティの希望無きサバイバルを描いている。
SFらしい出来事は一切起こらないのだが、人間のエゴと科学技術の結婚による荒廃が、その悲痛さがひしひしと伝わってくる。あくまでも汚染地域にとどまる人々の精神構造とそれを取り巻くあまりに末期的な空気が異様な雰囲気を醸し出している。
頭一つとびぬけた出来の短編である。
<チェコ>
「もうひとつの街」
著:ミハル・アイヴァス訳:阿部賢一
作品中でも異色の「あらすじ+長編の一部抜粋」という形態をとっている。その後、同長編は今年2月に河出書房新社から出版され、それに合わせて著者も来日した。
<私>による幻想的なプラハの裏に広がる「もうひとつの街」の探索の様子が語られる。SF者に対してはチャイナ・ミエヴィル「都市と都市」に似ていると言えばわかるだろうか。しかし「都市~」に比べるとかなり幻想色が強く、ほとんどシュールレアリスティックな情景が描かれ、主人公が彷徨する様子からは阿部公房を思い浮かべる方が楽かも知れない。とはいえ、抜粋だけでは少々物足りなさや意味不明さの方が際立つので、早くきちんと長編を読んでみたい。
<スロヴァキア>
「カウントダウン」
著:シチェファン・フスリツァ
訳:木村英明
またしても原発ネタ。東欧の人々にとっては原発はよほど恐怖の対象らしい(などと笑っていられなくなる事態が日本でも起こったわけだが)。
歴史改変SF。中国共産党独裁政権打倒を標榜する過激派がヨーロッパの原発を一度に占拠しまくり、中国に対して自由のための闘争を始めなければ、原発を爆破すると脅迫を行う。
勃発する事態もさることながら、登場人物たちも放射能に侵された元軍人の英雄、エイズの元娼婦などと末期的だ。なんでこんなに希望のない日常を描けるのか(ぼくはこういうの大好きです)。
目的と手段の逆転は滑稽だが、同様に最も恐ろしくもある。
「三つの色」
著:シチェファン・フスリツァ
訳:木村英明
「とある無慈悲な狙撃手(スナイパー)」とでも言っちゃえば良いのか。これもIFモノ。紛争状態にあるチェコスロヴァキア(だと思う)での戦闘行動がスナイパーの目を通して垣間見える。
ほんっとうに救いも糞もなく、兵士も民間人も平等に死に、希望は潰え、紛争は続く。
しかし、この作者どうやら30代半ばにして自殺したらしい。言わずもがなであった。だけど、こういう悲壮で乾いたユーモアしかない作品て好きなので、勿体ない。
ひとまず前半戦終了と言ったところか。
玉石混交というのが正直な感想。またSFを訳すにはSFの知識が必要なようで、どれとどれとは言わないが、訳がひどくて読むのが苦痛だった作品がある。
それでも翻訳が出るだけマシだし、訳者にも感謝しなければならないだろうが。
次回へ続く。