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主に虚構に関する生起しつつあるテクスト

チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん』(吉川凪[訳]/集英社)

 

となりのヨンヒさん

となりのヨンヒさん

 

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 全部で15の短篇が第一部“となりのヨンヒさん”と第二部“カドゥケウスの物語”に分けておさめられており、後半の4篇は世界観を同じくする超高速航法の技術を独占した超巨大企業が支配する人類圏の話となっている。

 第一部、冒頭の一作「デザート」は身の回りのあらゆるものをデザートとして理解するKを友人である“私”の視点から描く。次々と変わるKの彼氏がデザートに例えられ、“私”は困惑する。これは恋とコミュニケーションの話なのだが、そこにSF的な要素として、デザートという共感覚(とぼくは理解した)が挟まり、Kと“私”の感じ方の違いがコミカルに活写され、二人の関係性がゆっくり移り変わる様子がカラフルに立ち現れてくる。

「アリスとのティータイム」はSFプロパーが喜びそうな一作。登場するアリス・シェルドンは著名なSF作家ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの本名である。国防省に勤める“私”は並行世界を行き来する技術を用いて、他の並行世界から有用な情報や技術を収集することを生業とするいわばスパイだ。アリス・シェルドンもまたぼくらの世界ではCIA職員だったことが知られている。ある並行世界で“私”はアリス・シェルドンとひと時の交流をするのだが……作中にいくつかの仕掛けがほどこされたテクニカルな一篇だが、同時にぼくはこの作品がもっとも豪腕が振るわれた一品だと感じた。タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』のように。

「馬山沖」は死人の顔が海に浮かび上がるという地域が舞台の幻想色が強い作品。その地域の人々は常に死人たちと暮らしている。それはつまり過去と常に向き合うことを求められるということだ。

泥水にぷかぷか浮いた、かすかな顔、はっきりした顔。もう雨に打たれても濡れない、冷たい顔たちを数えてみた。いつどこで会った誰なのかわからない、そのたくさんの人、人、人。彼らを包む水の反映のような記憶。そしてまるで馬山沖の海中にあるみたいに、目の前に鮮やかに描き出される、まだ温かい顔。私は、痛む親知らずを抜くときの爽快感とは違う、かさぶたが取れた後のかすかな傷痕に感じる冷たい安らぎに満たされた。

この短篇集に収録された作品の登場人物たちは読者であるぼくらと変わらない、ごく普通の人たちだ。作品はどれも短いが、大部分の作品に共通しているのは誰もが持つ人生のかさぶたについての物語だということだ。やわらかな文章のタッチと裏腹に、世界は残酷で人々は傷つけられる。傷は治りかけてはいるが、ついかさぶたを剥がしてしまい、じくじくと血漿がにじむ。登場人物たちもぼくらも、かさぶたを無視することは出来ない。けれどもかさぶたをいたずらに剥がすのではなく、落ち着いて向き合えば、傷痕は残っても癒しがある。

「開花」はぼくがとりわけ気に入った一篇。インターネットのケーブル網を政府が徹底的に支配し、それを通じて管理・検閲される社会で、従順に生きる妹と、抑圧に抗って匿名化された無線情報網を築くレジスタンス活動をして逮捕された姉の人生と関係が、妹の受けるインタビューの形で語られる。植物をモデルに設計され偽装された無線ルーターを育てるというアイデアと文字通り希望の種を配り人々に育てさせるという静かに起こる変革のビジョンに心躍らされる。ブルース・スターリングの「われらが神経チェルノブイリ」にも似て、人を食ったような読後感があるが、世界を善くする意志が明確に背景に存在することが違いか。

 第二部“カドゥケウスの物語”では惑星植民が進んだ世界で、飛翔点跳躍と呼ばれる超高速航行技術を独占するカドゥケウス社のある意味で優しい独裁下で暮らす人々のエピソードが語られる。人々はカドゥケウス社によって庇護されているが、移動の自由はなく、会社の命令に逆らえば道徳的な行いであろうとも処罰を受ける。

「引っ越し」は宇宙飛行士に憧れる少年が自分の夢と難病に苦しむ妹の治療を天秤にかけさせられる。少年の心は傷つけられ、それはかさぶたになるが、いつかくる癒しを予感させる。

「一度の飛行」は宇宙飛行士を目指していたが挫折して国語教師となった男が、最初で最後となった卒業試験の飛行でのぞいてしまった宇宙の深淵について語るコズミックホラー。これは古典に近い趣がある。

 直接取り上げなかった収録作品も含めて、強く匂ったのは人々が生きる地歩、つまりは家族、友人、同僚、恋人、郷土や文化といったものとの繋がりだ。古典的とさえ思えるSFアイデアを使って、コミュニティの中で生きるということを丁寧に描き出す。人々がまったく別のサイボーグ生命へと変容していき、コミュニケートのあり方さえ変えてしまうポストヒューマンSF「跳躍」のような作品でさえ、単なる脱出ではなく共生や融和に寄せられている。

 本書は、コミュニティの抑圧的な面ばかりが取りざたされ、実際に息苦しさを感じる現代で、抑圧の原因でもあるコミュニティを通じた癒しを、変革の文学であるSFの枠組みで書いてくれた良質の短篇集だ。

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